ニューヨーク大学リハビリテーション病院の受付にある壁に掲載してある、この有名な名作。
作者不明で「おそらく患者さんが書いたのだろう」という推測が一般的です。
とても深い内容です。
【病者の祈り】
大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった。
より偉大なことが出来るように健康を求めたのに、
より良きことが出来るようにと
病弱を与えられた。
幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと
貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった。
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆるものを喜べるようにと
生命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、 願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りは
すべてかなえられた。
私はあらゆる人々の中で、
最も豊かに祝福されたのだ。
・・いかがでしょうか。
本来なら、「感動しました」とか「大変感銘を受けました」と言うところかも知れません。
でも私の感想は、ちょっと違います。
どうにも、腑に落ちないのです。
なんだか妙に無理やり感がある、そう思ってしまいます。
貧困・病弱で本当に幸福か?
私は正直なところ、いまだにこの詩を素直には受け入れられません。確かに、味わい深いと思います。
とても精神的に深い内容には間違いありません。
弱さ・病弱・貧困、それぞれを授かり、そして今この瞬間にも命を与えられている。
それは、間違いなく「奇跡」であるとの認識も、充分に理解出来ます。
「なんだかんだ言いつつも、今まだ生きているではないか」
これです。
確かに、命がある事は大変に有り難い現実です。
ただ、終盤に出てくる
「心の中の祈りはすべてかなえられた」
これは、「ちょっと違うんじゃない?」そう感じます。
「実現していないなら、かなえられたとは言えないじゃないか」
どうしても、そう考えてしまいます。
貧乏・貧困で果たして幸せを感じられるのか?
身体も弱く、お金もなく貧乏、こころも決して強くはない。。
そのような状況の中で、果たして心の底から祝福できるほどの楽しさが見出せるでしょうか。
私の答えは、『NO』です。
なかば無理やりにでも「これでいいのだ」と自分自身に納得させて、
「充分幸せじゃないか、今のままでも」と言い聞かせるならば、それが幸せと言えるのかもしれません。
でもそこには、かなり無理があるように感じてしまいます。
自分自身を強引に納得させているように思えてなりません。
まだまだ私の人生経験が不足しているのかも知れません。
「すべては完璧」との世界観
私の考えは、【病者の死】と比べると少し違います。それは、こうです。
すべては完璧である。心の中の邪念をいっさい吹っ飛ばしてしまい、
人生どうなろうと、それには意味があり、それで完璧である。
善も悪もない。
すべては、目に見えない大いなる何者かによって導かれている。
何もないゼロの状態にする。
何も考えない、何もしない。
すると、ゼロポイント(大いなる何物か)からインスピレーションが降りてくる。
それが降りてくるかどうか、誰も分かりません。もちろん自分自身も。
未来は誰にも分からない
その後は、どうなるのか分かりません。未来はどうなるのか?誰もそんな事分からないのです。
でも、それでいいのです。
楽観的であれば、人生何とかなる
楽観は、あらゆる物事を前へ進めていく。これは、私の人生訓として、深く胸の奥底に刻み込んでいます。
悲観は、すべてをかき消して泥沼に落ちていく。
ありがとうございました。